太田裕美の現在.元気にしてるか?

太田裕美さんの現在、現在元気にしているか?ご結婚されて2児のお子さんにも恵まれてお元気に活躍しているようですが病気説もありました。一世を風靡した素晴らしいシンガーソングライターですが、今はどうなのか?調べてみました。

1・太田裕美の現在は

2019年9月、日々大活躍の太田裕美さんから突然の発表がありました。それは乳癌の治療中であることでした。抗がん剤の治療を行っているとのことですが、やはりその副作用との辛いたたかいがあるようです。

現在は3か月に1度の定期検診を受けておられるようですが、他への転移もみられないことから順調に経過しているようで良かったと思います。

しかし、治療と並行しての活動は大変なものがありますが、歌手活動を続行する決意をしたそうです。そんな中。45周年の11月1日にメモリーアルバム「ヒロミ☆デラックス」をリリースしました。更にバイオリニスト高嶋ちさ子ピアノクインテットの演奏で、太田保呂美さんの代表局である「木綿のハンカチーフ」や「さらばシベリア鉄道」などを熱唱しました。

最新では、太田裕美さん作詞作曲の「桜の夜」なども発売しています。多忙を極める太田裕美さんですが、犬が大好きで柴犬「小太郎』を飼っており、2018年からは雑種の保護犬「十兵衛」を飼っています。犬たちとの触れ合い、これは相当癒されますし体調にとってもとても良いことだと思います。

ここまでお読みくださってありがとうございます。ここからはデビューについて、そして太田裕美さんの活動内容抜粋についての記事です。よろしかったら引き続きお読みください。

太田裕美さんのデビューまでのいきさつについてと活動

デビューまでのいきさつはというと、中学3年の時に(1969年)スクールメイツのオーデションを受けて合格してしまいました。しかもこれって友人の代役で受けたものなんですよ。代役でも受けた理由がこれまたすごい理由があったのです。

太田裕美さんがここに入学した理由というのが。大ファンだったザ・タイガースのジュリー(沢田研二さん)に会えるかもしれないという単純な理由からだったそうです。この辺も本気でそう思っていたならすごいですよね。

1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビューすると、さっそく20万枚ノヒットとなり、1975年の日本レコード大賞、日本歌謡大賞で新人賞を受賞しました。1975年12月に3枚目のアルバム「心が風邪を引いた日」からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が100万枚の大ヒットとなりました。

太田裕美さんは、このほかにも沢山のヒット曲を出していますが、この「木綿のハンカチーフ」が太田裕美さんの代表曲となったのです。

1976年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、以降1980年までの5年間連続出場したのです。この頃は飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、多くのところから出演の依頼がありました。学園祭などにも多数出演して「学園祭の女王」とも異名をとるまでになっていました。

この頃、渡辺プロダクションが若者のニューミュージック志向を高めようと立ち上げた「NON STOPプロジェクト」の一員でもありました。

他のメンバーには桑江知子さん、大沢誉志幸さん、山下久美子さん、チャクラなどのメンバーがいて、後に大田裕美さんのご主人となる福岡智彦さんが在籍していて、チャクラのメジャーデギューをてがけていました。

1982年に音楽活動を一時休業してニューヨークに単身留学し、「八番街西五十一丁目より」執筆で第4回ニッポン放送文芸優秀賞を受賞しました。

帰国後に新たに福岡智彦さんが加わり、1983年以降はテクノポップ調の曲をリリースするようになりました。

スクールメイツが何なのか。ご存知ない方のために説明します。スクールメイツは俳優やタレントを育成する「有限会社東京音楽学院」の選抜メンバーで構成された芸能グループで、NHKで使用した別名はヤングメイツというものがあります。

少し古い話になりますが、1962年渡辺プロダクションの渡辺美佐さんが欧米研修から帰国したときに、「本格的なジャズ・ポップスの合唱団をつくり、後継者を育てたい」それから翌年の1963年に東京音楽学院が発足したのです。

ここからの主な出身タレントは本当にすごいメンバーなんですね。皆さんの聞いたことのある名前です。列記してみますね。

  • 布施明
  • 森進一
  • 湯原昌幸
  • 平山三紀
  • 野口五郎
  • キャンディーズ
  • 高橋真梨子
  • 石川ひとみ
  • さこみちよ
  • 森口博子
  • 吉川晃司
  • 川島なお美

勿論太田裕美さんもそうです。まだまだたくさんのタレントさんがおりますが、書ききれないのでこのくらいにしておきますがまだ、現役で活躍している方も多くいらっしゃいます。

同期生には、水谷豊さんの奥様になられた伊藤蘭さんや田中好子さんがいました。1972年11月高校3年生の時にNHK総合TV「ステージ101」という音楽番組のレギュラー出演グループのオーディションを受け、得意のピアノ「ショパンのワルツ」を弾いて見事合格しました。

1973年から1974年まで1年間の番組でしたが、レギュラーメンバーとして活躍しました。その時の友人の勧めもあって姓名判断により「弘美」から「裕美」に変更したのです。

それから、1973月年12月にNETテレビのオーディション番組「スター・オン・ステージあなたならOK」に出て合格、渡辺プロダクションと新人養成契約を結んで、西銀座のライブハウス「メイツ」でピアノの弾き語りをはじめました。

太田裕美さんはアイドル志望でしたが20歳という年齢からアイドルというには無理があると判断され、太田裕美さんの宣伝担当についたディレクターが吉田拓郎さんや山本コータローさんのフォークソングを担当していたこともあり、周りと相談してピアノの弾き語りが得意だった太田裕美さんをフォーク調のポップス路線で行くことを提案しました。

そこで原宿のカフェバー「ペニーレイン」につれていきました。ここは吉田拓郎さんやフォークシンガーが集まる店であり、そこで太田裕美さんを紹介しました。そのようなことがありたちまちフォークファンの心をつかんだ太田裕美さんの名前がひろがっていきました動も開始しました、その後多方面への楽曲の提供や新曲のリリースなど積極的な活動を展開しました。

大田裕美さんのおいたちと私生活

  • 本名 :太田裕美
  • 誕生日 :1955年1月20日
  • 出生地 :東京荒川区生まれ 埼玉県春日部育ち
  • 職業 :歌手・シンガーソングライター
  • 配偶者 :福岡智彦氏(音楽プロデューサー)
  • 子供 :息子さん2人

3歳の時埼玉県春日部市に転居しました。実家は春日部市で工場と寿司屋を経営していました。太田裕美さんは8歳の時にピアノを習い始めて、このころから作曲を手掛けたようで、才能があったのでしょうね。小学生の時はコーラス部で活動していました。

1964年4月 上野学園中学校音楽指導課声楽科に入学した。太田裕美さんの声質は個性的というか周りからは変だといわれていて、ここで「自分の声は個性的」と思ったようです。この辺の考え方がプラス思考なんですね。ふつうは、変だといわれたら落ち込んだりしがちですが、そこがえらいですね。

そして、私生活に於いては、1984年29歳の誕生日にディレクター兼プロヂューサーの福岡智彦さんとの交際を明らかにし、翌年1985年1月26日に結婚、仲人に愛川欽也・うつみ宮土理ご夫妻がつとめられました。盛り上がったでしょうね。

まとめ

乳癌発症から抗がん剤の治療で、現在では元気に活躍されています。ご主人とお子様2人と犬に囲まれて幸せな生活をおくられているようです。今後益々素晴らしい作品や歌を披露してくれるものと期待しています。

最後までお読みくださいましてありがとうございました。また別な記事を書きますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

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